2016年1月1日金曜日

アニマは女性像ではない

 アニマ(anima)という元型は、ユング心理学の個性化の過程の中間的な段階において現れてくるようである。アニマは、男性の心の中の女性像とされている。これに対して、女性の心の中の男性像は、アニムス(animus)であるとされているが、このアニムスについては、僕にはさっぱり分からないので、ここでは触れないことにする。
 アニマが女性像であるとすれば、仏教でいえば弁財天(弁天。 Sarasvati)のようなものか。アニマは元型であるから、その住処は集合的無意識である。集合的無意識から立ち現れてきて、時として女性に投影される。このアニマが、恋愛においてどのような働きをしているのか、どのような役割を担っているのか、僕にはさっぱり分からない。とにかく、このような訳の分からない、むちゃくちゃな概念について考えることさえ厭わしい。
 アニマが集合的無意識から現れてくる女性像ならば、その容貌はどのようなものだろうか。集合的無意識はあらゆる人類共通の無意識なのだから、そこから現れてくるアニマなるものは、Aさんの心の中のアニマも、Bさんの心の中のアニマも、Cさんの心の中のアニマも、Dさんの心の中のアニマも、すべて同じ容姿や顔つきをしているのだろう。また、黒人男性の心の中のアニマも、白人男性の心の中のアニマも、黄色人種の男性の心の中のアニマも、やはり同じ顔つき容姿をしているのだろう。ちょっと待ってくれ。そんな馬鹿なことがあるのか。それでは、女性像ではないではないか。ただの石ころか、せいぜい粘土を捏ねて作った何かの像みたいなものではないか。そんなものは、女性像なんかではない。心の中の女性像とは、あくまでも個人的な経験が母体になっているのである。アプリオリ(a priori)な女性像などというものはない。
 男性が女性に“女”を感じるのは、その女性が個別的具体的な存在だからである。血が通い、息遣いが感じられる女性でなければ、“女”として認めがたい。一般的普遍的集合的な“女性らしきもの”には、“女”を感じない。女性性を具有していないのである。われわれは女神や弁天には“女”を感じることはないのであって、愛の対象となりうる女性性を女神や弁天は具有してはいないのである。もしも女神か弁天に恋をした男がいたら、その男は狂人として扱われ、現実の世界、人間の社会で生きていくことができなくなるにちがいない。女神か弁天を、またアニマを投影している女性に恋している男も、同様の運命を辿るにちがいない。アニマも、愛の対象となりうる女性としての資格がないのである。したがって、一般的普遍的集合的な“女性らしきもの”を投影したような女性と恋に落ちることもないし、愛を感じることもない。ユング派は、まさにこのような狂った人々ではないのか。
 ユンギアンやユングの信奉者達は、すべからく愛から見放されている。遠山敦子が愛を知っているわけがなかろう。本当に愛を知っているのなら、人に対して、それも何人もの芸術家に対してあのように残酷になれるはずがないのである。龍谷大学文学部の小島勝教授も、愛を知らない。二度も結婚していながら、一度も愛を経験したことがないとは、ちょっと情けない気がしないでもない。愛を知っているのならば、人に対して、今度は僕に対してだ、あのように残酷になれるわけがない。こちらから願ったわけではない。勝手にヘラヘラ笑いながら向こうから近づいてきて、犯罪行為を行い、抗議しても今度は手のひらを返すように完全に無視しやがる。返事さえしないのである。僕は、このような冷たい恐ろしい人物とお近づきになんかなりたくなかった。
 夏目漱石の『三四郎』で、与次郎が、“ Pity's akin to love.”という英文を「可哀想だた惚れたってことよ」と翻訳して広田先生に叱られる場面がある。ここで与次郎が叱られたのは、翻訳の表現が俗悪すぎるからであって、英文の内容とは関係ない。だが、憐れみが愛に転化することは、絶対にない。憐れみと愛とは、全くの別物であり、異質なものである。水と油なのである。水が油に変化することはない。もしも男がある女性に“女”を感じていて、その女性が愛対象になりうるのならば、憐れみというもってまわったような、うそうそしい一次的手続きを践まないで、いきなり本題に入ることだろう。夏目漱石は、英文学を研究したことによって得られた観念をもとにして恋愛を扱った小説を書いているようである。実体験を基盤にしているのではないのである。中世の歌人が、昔読んだ物語の一場面を思い浮かべながら、恋の歌を作っているようなものだ。そのような恋愛小説に、一体どんな意味があるというのか。ユング派は、この夏目漱石と似たような、同じような次元の過ちを犯している。体験や経験を消し去り、それにかえて、一般的普遍的集合的な観念で置き換えようとする。これはもう、文化破壊や精神破壊としか言いようのないものである。また同様に、人間愛が狭義の愛、つまり異性間の愛に転換することもない。人間愛と狭義の愛も異質な別の物なのであって、人間愛が狭義の愛に転化することは絶対にない。
 僕は、愛を感じている女性との仲を卑劣な手段で引き裂かれた。かわりに、愛のない女性との結婚を強要され続けてきた。僕は、それに抵抗しているために何度も何度も、これでもかこれでもかというふうに、断崖絶壁に追い詰められて死の恐怖を幾度も味わわされている。たとえ話にしよう。男が道を歩いていると、道端で乞食女が座り込んでいる(このたとえ話は、あまり適切ではないだろうが、分かりやすくするためには仕方がない)。男は乞食女をかわいそうに思い、幾許かの施しをした。乞食女は、男のこの行為を、男の愛の表現と勘違いしたのである。もしくは、乞食女は男の行為に触発されて、自分は男を愛していると、自分自身の心を取り違えて解釈したのである。その様子を見ていたユンギアンが、男を拉致して監禁し、暴行を加えて脅迫した。その乞食女と結婚せよ、そうすれば乞食女はその不幸な境遇から脱することができるであろう、と。ここでユング派の頭の中で、元型としてのアニマがどのような働きをしていると考えているのか見当がつかない。その乞食女に、アニマが投影されているとでも考えているのだろうか。愛も知らない、恋もしたこともないから、めちゃくちゃなことを考えるものだ。男は乞食女に“女”を感じていないのであって、それはつまり、乞食女は愛の対象になる資格がないということである。憐れみや人間愛が、狭義の愛に転化することは決してない。愛も知らない、恋もした経験もないユンギアンが、他人の愛や結婚に臆面もなく口を出しちょっかいを出すとは何事か。恥ずかしくないのか。ユンギアンが愛を全く知らないし、恋もしたことがないのは明らかである。彼らには、現実世界との関わりがないからである。虚構の世界のみに棲息している、人間ではない生き物だからである。だから彼らの中の男性は、現実の血が通い息遣いが感じられる女性と向き合った経験が皆無なのである。せいぜいアニマなどという、とても女性性を具有しているとは思えない奇妙な何かの像を、目の前にいる女性に投影して、その投影を受けた女性の女性性を剥奪しているのである。こうしてユンギアンは、愛のない世界に踏み迷い、さまよっている。そして愛ではないものを愛であると無理やり自分に言い聞かせようとし、他人にも愛を断念させて、愛にあらざるものに縋れと強要する。砂漠に迷い、さまよう人が、蜃気楼の幻影を見て、それに縋りつくようなものである。一本の草や木も生えない荒寥たる世界に、自己満足して浸かりきっているから不思議なものである。
 ユング派が愛を知らないのは、すべてを一般的普遍的集合的なものに求めようとするからである。度を越した精神主義とでも言うべきものだろうか。精神主義も過度になりすぎると、かえって精神が荒廃する。白河の水が清らかすぎると、かえって田沼の濁りが恋しくなる。きれいは汚い、汚いはきれい、なのである(『マクベス』冒頭の魔女の言葉)。過度の精神主義は自己の精神を荒廃させるばかりではなく、他者の精神を押しつぶすものである。S・フロイトは、「エディプス・コンプレックス」という衝撃的な概念を提唱したために、精神分析は、いやらしいと見限って、ユング心理学に走った人もいるかと思う。ところが実生活では、S・フロイトよりもC・G・ユングのほうが、はるかにいやらしいのである(女弟子との関係)。集合的無意識のどこを探しても、愛に至るものは見つからない。愛から離されて、遠のいていくばかりだ。


アニマは女性像ではないPARTⅡ」( http://gorom2.blogspot.my/2016/01/part.html )
アニマは女性像ではないPARTⅢ」( http://gorom2.blogspot.my/2016/01/part_12.html )
アニマは女性像ではないPARTⅣ
( http://gorom2.blogspot.my/2016/01/part_13.html )
アニマは女性像ではないPARTⅤ
( http://gorom2.blogspot.my/2016/01/part_18.html )
アニマは女性像ではないPARTⅥ」( http://gorom2.blogspot.my/2016/01/part_20.html )