2014年12月28日日曜日

集合的無意識なんかなかった

 人類は集合的無意識(collective unconscious)をどのようにして獲得したのだろうか。これについては、僕の2本目の発表論文を読んでいただくのが一番よいのだけれども、ここでかいつまんで述べておく。因みに、1本目の論文は国文学関係のものであるが、なんと国立国会図書館には所蔵されていないのである(20013年2月時点)。これは明らかに違法状態であるが、怠慢によるものである。僕はこのことを指摘して、国立図書館への送付を促したが、いまだに送付されていないのではないかと思う。しかし、この送付については僕には関わりのないことであるので、これ以上は言わないことにする。そのかわり特に関西地方の私立大学の図書館や研究室には、この雑誌を所蔵しているところもあるはずである。2本目の論文を発表した後、僕は論文を書いても発表することができなくなった。翻訳書さえ出版できなくなった。なにか言論統制のようなものを感じた。こうして日本を捨てざるをえなくなったのである。アメリカも似たような状況であろう。ユングを批判していた“Richard Noll”は、2作目か3作目の著書を出版してから、ぱったりとユング批判の本を出さなくなった。“Richard Noll”に続く人物も出てきそうにない。“Richard Noll”に対するユング派のストーカーまがいの行為によるのかもしれない(“Richard Noll”二作目の著書の後書き参照)。日本もアメリカも、本当に自由主義的な民主国家なのか。日本もアメリカも、民主化されていないと他国を非難する資格はない。
 集合的無意識は、絶対に変化してはならないものである。もしも変化するものだとすれば、アフリカに住んでいる人々と、東洋の国日本で生きている人々の集合的無意識が長い時間の経過とともに、それぞれの異なる経験の積み重ねによって、違うものになるはずである。そうすると、アフリカの人々と日本の人々との集合的無意識が異なるものだということになって、これではとても集合的無意識とはいえないものになってしまう。個別的な無意識になってしまうのである。従って、集合的無意識は絶対に変化してはならぬものである。
 集合的無意識が絶対に変化してはならないとすれば、実に奇妙なことになってしまう。進化論の立場に立てみよう。人類は、その進化の過程のどの時点において集合的無意識なるものを獲得したのか。サルのような動物から、ホモサピエンスになったとき、そのときに生存していた人々の全員の心の深奥に、集合的無意識なるものが一斉に形成されたのか。こんな途方もない馬鹿げたことがありうるはずがないことは、誰の目にも明らかだろう。
 そうすると、人類がホモサピエンスになる前の、もっと早い段階にその時点を求めなければならなくなる。いったいどの時点だろうか。そんな時点など、どこにもないのである。地球上で生物が海で発生した時点まで遡ってしまうのである。そうすると、アメーバのような原生動物にも、人類の集合的無意識と共通するような集合的無意識があることになる。アメーバの集合的無意識も人類のものと同じように高度な内容を持っていて、アメーバの夢の中で、アニマとか影とかの元型が現れる。そして、地球上のあらゆる生物の無意識は同一のものであることになる。こんな馬鹿げたことを誰が信じよう。
 進化論の立場を放棄したらどうなるのか。進化論は、神による世界創造神話に対するアンチテーゼとして提起されたものである。神は一日にして人類を作り、その心の深奥に集合的無意識なるものを付与されたことになる。これは、“Jungian”としては受け入れがたい考えであろう。彼らは、神という概念の上に、さらに上位概念を建てているからである。すなわち、元型としての自己(self)である。つまり、神の絶対性を否定し、神の存在さえも否定するのである。だから、彼らは世界中のあらゆる宗教を見下している。または、自分たちの“はしため”のように考えている。だから、宗教団体の設立したA大学の学長や理事長をはじめ、A大学の運営に携わる人々は愚か者だと言っている。神による世界創造神話を認めても、ユング心理学は根底から崩れ去ることになるのである。
 進化論に立脚しても、世界創造神話に立脚しても、集合的無意識なるものはありえないことがわかった。ユング心理学は、単なる精神病者の妄想体系にすぎない。